誰かの声を聞いたような気がした。振り返ってみると、一人の男と目があった。



「新ちゃん、どうしたの。」

妙は、往来の真ん中で立ち止まっている新八に声をかけた。新八はすぐに、「おかしいなぁ。」といいながら、こちらへ戻ってきた。

「もう、人が多いんだから、気をつけてよ。」
「うん、わかってますって。」

確かに、この往来には人が多かった。いや、往来というよりは、この建物の前に、と言ったほうがいいだろう。
この建物、とは軽く百年の歴史を持つ寄席見だ。今日はここで、人形浄瑠璃の公演がある。
演じるのはこの国一番の有名どころで、幕府顧問でもある一座。

外題は「傾城阿波鳴門」(けいせいあわのなると)。

いわゆるご当地物といわれる類の外題であり、濡れ衣を着せられた父母が、自身の無実を証明するべく賊に成りすまし、放浪する話である。この外題で一番有名なのが「順礼の段」で、この段で母は偶然、生き別れになった実の娘と再会を果たす。しかし娘は実の母だと気づかず、そして母も、お尋ね者となった父のために余計な災難を被るだろう娘の身を案じ、自分が実の母親であるという真実を隠そうとする。しかし、ここで告げねば娘とは二度と会えない・・・・・・。事実を告げるか否か。ここでの娘を思う母の葛藤に、観客はみな涙するという。

「で、結局、その母親はどうするんですか。」
「確か・・・・一度は娘を追い返すんだけど、後で追いかけていくんじゃないかしら。」
「なんか曖昧ですね。」
「だって、知らないんだもの。詳しいことは。」
「え、知らないんですか!?姉上が言い出したんじゃないですか、浄瑠璃を見に行こうって。」
「だって・・・お客様の一人に貰ったんですもの。タダなんだから、行かないと損じゃない。」

そう言って、妙は手に持ったチケットをひらひらさせた。新八の手にもあるそれには、大きく「傾城阿波鳴門」という文字が金色の方抜きで記してある。そしてその下には大きく「特別御優待券」の文字。姉は微笑んでいるが、恐らく客に貢がせたか、ぶんどったかの強引な手段で入手したと思われる。そのせいだろうか、建物の周りにいる人間の身なり風情が、明らかに自分たちのそれとは違う。場違いなその雰囲気に、新八は落ち着かない。

「もう、そんなにもじもじしないの。」

見かねた妙が、新八に声をかける。

「堂々としてればいいの。ここにいるのは、みんな馬の骨よ。かぼちゃよ。」
「それは言い過ぎなんじゃ、」

妙は、店では有名なキャバ嬢である。職業柄、幕臣や社長、いわゆるビップと呼ばれる類の人々にはある程度、慣れている。なんら普段と変わらない態度で、建物の入り口のモギリ係にチケットを渡しながら言った。

「人がたくさんいるように見えるけれど、これも毎月行われているそうよ。」
「そうなんですか。」
「ええ、色々公演されている外題の中でも人気があるお話だから、月一回は必ず公演されるらしいわ。」
「へえ・・・。」
「だからそれほど珍しいものでもないの。変に気を張らないで、新ちゃんも普段どおりにしていればいいのよ。」

そう言って、妙は先に建物の中へ入った。新八も、姉に続いてチケットを渡す。

「お席は、二階の上座となります。係員の指示に従って、お進みください。」

丁寧な口調で説明するモギリ係の男に、新八は軽く頷いた。
丁寧というよりは、むしろ気味が悪いほどに微笑んでいるモギリだった。

「新ちゃん、どうしたの。」

姉に呼ばれて、モギリの顔から目を逸らした。
そのまま上座へ上った。公演が始まる頃には、新八はすべて忘れていた。



『炎上!炎上!炎上!』

新八が、全てを思い出したのは翌朝である。
その日も、いつもの朝となんら変わりはなかった。新八は、その日休みだった妙と共に軽い朝食を食べていた。チュンチュン、とすずめのさえずりを聞き、心地よい朝日を浴び、朝刊を取りに郵便受けまで歩いた。なんともなしに眺めた朝刊の見出し、それを見て愕然とした。

『舞台炎上、まさかの「傾城阿波鳴門」、攘夷志士の仕業か!?』

全身の血が一気に引いていくのがわかった。炎上。昨日の舞台が・・・・。
無我夢中で記事を読んだ。
やはり、朝刊に載っているのは昨日自分と姉が行った舞台である。何者かの手によって炎上し、一晩のうちに焼け落ちたそうだ。火の手が回るのが以上に早く、消化装置をつけていたにも関わらず、作動したのはごくわずかだった。死者は、三名。民間人・幕臣を含めた約五十名が軽症を負ったという。時間を見てみると、その日最後の公演の最中に起こったらしい。
新八と妙が見た公演の、ひとつ後だった。自分と姉は、ともかく命拾いをしたらしいが、もしあと一つでも遅い公演に行っていたら・・・・。

愕然とする中、新八は、ふと思い出した。思い出した瞬間、全身の肌という肌が粟立った。

入り口にいた、モギリの奇妙な笑顔を。
そして、誰かに呼ばれた気がしたことを。

嬉しそうなモギリの、奇妙なまでの笑顔。
あのモギリは、まさかこの火災が起きるのを知っていたのではないか。
いや知っていたどころではない。あのモギリが、火災を「起こした」のではないか・・・・?
いや、そんなことはない。新八は笑って否定した。
考えすぎだ。モギリが笑顔で接客するのは普通だろう。なにを考えているんだ。

しかし、新八は往来の中にいた男のことを思い出した。
そして同時に男の言葉を思い出して、ぞっとした。


『よかったなあ。』


確かにそう聞こえた。男はそう言った。
往来にいた男と、モギリ。
男の言葉の意味。そして男の目、包帯に覆われていないほうの、男の右目。

どうして忘れていたんだろう。あの男の右目は、確かに僕を捕らえていたのだ。





阿波鳴門順礼歌




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[初出 2008.2.2]