ぼんやりとした暗がりの中、男と女を見ていた。
美しい女と、年老いた初老の男だった。
二人は会話を交わしているようだった。
しかし、お互いの言葉が時々聞こえていないようだった。男の耳が悪くなったせいか、あるいは。
しかし女のほうは、さほど気にしていないようだった。首をかしげて、ほほえむだけ。悲しそうに。

しばらく会話は続いた。
それでもやはり、意思疎通が図れていない。
いらいらする。
しかし同時に、いたく懐かしく激しい感情を覚える。これは会話のせいではない。
この二人が、ひとつの情景のなかにいるのが腹立たしい。押し黙りたくなる。

「よく、わからないな」
「わたしも。」
「お前が来たってことは、俺は死んだのか」
「・・・・・・でも、どうして。他の方は。」
「わからない。」

そう言って、ゆっくりと二人は歩き出した。いたく暗い、どこかを。
「それにしても、お前は若いな。」
「あなたが、年を取りすぎただけ。」
ふふ、と女は笑う。
すると男は、真面目腐った顔で、
「お前が言うなら、そうかもしれねぇな」
と言った。

と、出し抜けに男は立ち止まった。少し先を歩いていた女は、ふと脇に寂しさを感じて振り返る。
そして首をかしげて、男の言葉を促す。

「もっと早く死にたかった」

女の顔を見たせいだろうか、男は、ぽつりとそう零した。
そして「どうせ死ぬなら、もっと若いほうがよかったよ」とも、言った。
すると女は、必死に首を左右に振った。

「そんなこと言っちゃ、だめよ」
「もっと早くに」
「だめ。」

女の一言は、はっきりとした強い口調だった。
ひどく、懐かしさに焦がれた。久しく聞いていない声だった。
初老の男は、再び足を進める。女は、男の背だけを見て歩いた。

「お前とさ、こうやって歩いていると奇妙で仕方がねぇんだよ」
年寄りと若い女なんて。

自嘲気味なその男の声は、自分の神経をいたく高ぶらせた。
身を乗り出そうとした瞬間、女が立ち止まった。

「そんなことないわ。」

だが、男の口は止まらず、「あの世でよぼよぼはごめんだ。どうせなら、___お前が死んだころの俺がいい」
そう言って、男は微笑んだ。どこか、恍惚としているようだった。

「だめよ、絶対にだめ。だって、それはつまり、」

ふいに、先を歩いていた男が振り返った。


「待たせすぎ、なんだよ。」


ああ、と。自分は男の意が解せた。
だが、女はわからないようであった。男の目を見て、不安そうに首をかしげる。
男は続ける。

「大体、待たせるつもりは、かけらもねぇんだよ。死んだヤツらを、・・・・お前を含めてな」
「だめ。ねぇ、そんなのやめて。」

女の顔が深刻になる。綺麗なその顔に、陰りがのぞく。

その刹那。
男の顔、体、何もかもが若返った。
白いものが見え隠れしていた髪は闇に溶け込むほど黒く、曲がっていた腰は伸び、しわは消えた。
そして男は、ゆっくりと歩みを女のほうへ向けた。すぐ側まで近寄ると、一瞬微笑んで女の涙をその骨ばった手ではらった。
女はびくりと肩を震わせた。大きく見開かれた二つの目に、恐れの色はなかった。ただ深い悲しみがあるだけで。

「待たせたな。・・・・でも、ちょっとだっただろ。」

女は尚も肩を震わせている。右手を口元にあて、必死に嗚咽を堪えていた。
男は遇に歩み寄り、女の震える肩をぐい、と引き寄せた。そして、あやすように背を撫でた。

「すまなかった。」

女は頭を左右に振った。何度も振った。小さな嗚咽が、その隙間から漏れていた。

いつしか、夕方になっていた。
懐かしい風景だった。よく二人を眺めていた縁側、うるさいと零していた蝉の声。
男は黒く長い髪を一つにまとめ、女は自分と同じ薄い髪色をしていた。
驚いて目を見開いていると、ゆっくりと二人が振り返った。そして、笑った。
なんだかその情景が優しすぎて、泣けてきた。
涙を払う自分の手は、とても小さかった。





「起きろ。市中見回りだ」
そう言った男の顔がなぜか、いたく奇妙に思えて、アイマスクを上げて、瞬きを二、三度してみた。
「何度言わせればわかる。」
「・・・・・土方さん、」

蝉はない。田舎の夕方もない。
もちろん、姉はもういない。

「さっき、面白い夢を見たんでさぁ」
「へぇ。」

男は煙草を口に咥えた。空を見る。
もう既に、闇が深みを増していた。

「ジジィが出てくる夢なんですが。」
「それのどこが面白いんだよ」
「ジジイが死ぬんです」
「はぁ?」
「あ、言い忘れてましたがそのジジイ、土方さんにそっくりだったんでさぁ」




縁側にて




[初出 2007.12.27]