下を向いていた。そこいらに生えていた草をちぎる。 姉に教えてもらったように、爪で細い切れ目を入れる。そしてそれを・・・・どうだったっけ。どうすれば、きちんとした舟のような形になるんだっけ。 少し考えていたが、わからない。悔しくなって水面に投げた。 本日三度目のそれは、ゆっくりとした流れとは対照的に、さぁっと流れて消えていった。 枝か何かに引っかかったか、それとも海まで流れていったのか、総悟は知る由もない。 ああ、うるせぇなぁ。 心の中で、すぐそばで鳴きたてている油蝉に悪態をついた。 目の裏にちらつく、日差しの反射した緑の葉が、よけいに総悟をいらいらさせた。 総悟は橋の上に腰を下ろした。 この小川に掛かっている橋は、橋と呼べる代物ではないほど小さなものだった。簡易用として、村の誰かが木切れを置いたと言ったほうが正しいようなものだ。 足をぷらりぷらりと遊ばせる。 隣のスペースには誰もいないとわかっているくせに、なんともなしに視線を横に投げた。 該当のスペースにいるはずの姉は、今はいない。 姉は村で、子ども相手に三味線の先生をしている。明日は読み書きの先生だ。そしてその次の日は歌の先生、そしてその次は。 つまるところ、それらが生業だった。姉と自分の。 総悟は少しだけ、むしゃくしゃしていた。 ほんの些細な事だったが、この時の彼にとっては死活問題だった。 (・・・・そもそもの原因は、そうだ、アイツだ。) 豆腐屋の息子だ。 自分より一、二歳上の、黒くて長細い男だった。笑うと、その細い目が一層細くなり、それが総悟は気に入らなかった。 ある日、その息子は総悟の嫌いな細い目で、ニヤニヤしながら総悟をじっとりと見ていた。 そしてすれ違い様、総悟の耳元で「親なし」と呟いた。 次の瞬間には、自分の手は相手の胸倉を掴んでいた。 大人の誰かに無理矢理に止められるまで、総悟は殴り続けていた。 豆腐屋の息子との一件で、総悟は「自分は喧嘩に強いらしいのではないか」と思い始めた。 それが確信に変わったのは、それから二週間後だった。 豆腐屋の息子が、リベンジに訪れたのだ。 それも一人ではなく、仲間を連れて。ご丁寧にも、相手はみな背の高く力のありそうな顔ぶれであった。 しかし、これも結局、総悟が勝ってしまった。こんなに弱いのか、と思うほど総悟にとっては造作もないことだった。 が、総悟はすぐに新たな問題に直面することになる。 一人対大勢、しかも年上、武器として太い木の枝を携えているような連中である。さすがの総悟も無傷というわけにはいかなかった。家に帰って、やはり自分の懸念は当たっていたことが知れた。姉だ。 なぜこんな怪我をしたのか、誰かにやられたのか。 とがめる口調でもなく、ゆっくりと心配の情がにじみ出たような顔でこう問われたとき、総悟は胸の奥をぐい、とひねられたような気持ちに陥った。 それまで泣いていなかった総悟は、このとき初めて泣いた。姉をこんな気持ちにしてしまった自分が、情けなくて仕方がなかった。 総悟が泣き止むまで、姉は背中をぽんぽん、とまるで赤子をあやすかのように、ゆっくりとさすってくれた。 本当に、優しかった。 その日はいつの間にか眠りに落ちていた。 本当に、あたたかかった。 総悟は、先ほどの残り葉一枚を水面へ向かって捨てた。 しかし、依然として難題は総悟の前に存在している。 いかにして、多勢の相手を負かすことができるか。しかも無傷で。 一人相手なら、いける自信はあった。だが、それが二人、三人と増えてしまうと、負かす自信はあっても無傷で帰れる自信はなかった。 自分が怪我をすれば、姉はきっと心配する。何度もそんなことが起きると、恐らく姉は黙っていないだろう。 最悪の場合、姉にも被害が降りかかることだって、あり得るではないか。 (それだけは、絶対にだめだ。) しかし、その手段がわからなかった。どうすれば、どうすれば、どうすればいい。 自分が切に欲している解決策は、どこを探しても見つからなかった。 なにより、総悟はまだ、幼かった。 もう一度、今度は立ち上がって茂みへ入り、竹の葉をちぎった。 力任せに二、三枚取った。ぶちり、と音がした。手が少し痛くなったが、気にしないでいた。 今度はなんだか上手く行く気がして、再度笹舟を作ろうと試みた。 出来上がったそれは、滑稽な形は相も変わらず。だが先ほどよりは上手くできたような気がする。 少しだけ笑って、それを眼前に流れる小川に浮かべようとしたとき、 「まった。」 と言って、総悟の手を押さえる大きな手があった。 大きいだけでなく、その手がごつごつとしていて、それに一瞬総悟はひるんだ。 いつも傍らで見ている、姉の三味線の撥を持つ華奢な手以外、こんなに近くで目にしたことはなかった。 そんな具合に手だけを見ていると、男は笑った。 「こうすると、もっといいぞ。」 男は手馴れた手つきで舟に切り込みを入れた。そして、もう一枚の笹を器用に折って差し込んだ。 するとどうだろう。先ほどの滑稽さはどこへやら、立派な舟の形になった。 男の手から、その舟が離れた。同時に総悟は「あっ」と声を上げた。 あっという間に、舟は川を下って行った。やがて見えなくなった。 「お前、昨日もここに来ていただろう。」 出し抜けに言われて驚く。 「こんなことばっかりして、楽しいか。」 (楽しいわけあるか。) その答えが瞬時に頭をよぎった。口に出して言ってやろうかとも思った。が、ぐっと耐えた。 男を無視して、どかりと橋の上に腰を下ろした。 すると男は、再び笑った。男の本意がつかめず、総悟は怪訝そうに眉をひそめた。 「ま、確かに笹舟も楽しいけどな」 楽しいも楽しくないも、自分は姉を待っている間にただこうして暇を潰しているだけなのだ。 それなのに、なぜこの男は、そんなことを問うのだろうか。真意が、ますます掴めない。 「お前、俺の道場に来い。」 面と向かって言われ、驚いた。 「笹舟を作ってる暇があるなら、その暇を俺にくれないかなぁ。」 その後も男は、ぺらぺらと喋った。笑顔で、時折すこし困ったような顔で。 正直、総悟は男が何を言っているのかわからなかった。 「なァに、たった数時間だけよ。俺の道場で暇を潰していけ。道具の心配ならせんでいい。あまりなら山ほどある。」 総悟は考えた。 この男のようになれるのだろうか。 ・・・・そこに行けば。 姉を守れるくらい、多勢相手でも無傷で勝てるくらい、強くなれるだろうか。 この手で、守れるだろうか。 「まァ、今すぐにとは言わねえよ。気が向いたら来い。昼飯くらい出してやるぞ。・・・・ああ、姉上が来られたみたいだぞ。」 男は、姉に軽く会釈をして去っていった。姉はきょとんとしていたが、男に会釈を返してこちらへよってきた。 この人を守れるだろうか。この手で守っていけるだろうか。 守れるくらい強くなれるだろうか。 ・・・・・・あの男のいるところへ行けば。 「帰りましょうか。そーちゃん。」 総悟は、ぼんやりとしていた。 そして自分の手を見つめたまま、しばらくそこから動かなかった。 笹舟 |