ゆっくり、しとしとと降り注ぐ雨。 優しく降り注ぐそれを赤い傘で受け止めながら、彼は路を行った。 彼は下を向いて歩くなどという愚行を犯しはしない。常に前だけを向いて歩いている。 数年前から、彼は真正面を向いて歩くようになった。 振り返る、という動作を行わなくなった。確かに彼は回顧主義などというものは持ち合わせていなかったが、それでも人並みに、自分の歩いてきた路を振り返ったり、郷愁の念に駆られたりした経験はあった。が、あるときを境に、まったく振り返るということを行わなくなった。こんな雨の日ですら。(彼に例外というものはない。) よって、数十メートル先にたたずんでいた影にすら気づいてしまう彼の癖は、さもありなん、といった具合である。 が、彼よりも、彼の数十メートル先にたたずんでいた影のほうが、彼が意識するよりもはやく彼の存在に気づいていた。影は彼を凝視したまま、その場にたたずんでいた。 傘をさして。 彼は知らん顔をしてその影の横を通り過ぎた。 立ち止まって顔を確かめようと思っていたが、その必要がないということが近づくにつれてわかった。 先方は、変わらず彼の目を凝視していた。いや、睨んでいるといったほうがいいだろうか。 路は、とても静かだった。雑音どころか、人すら一人も見えない。 二人だけ。 お互いがお互いの顔を認識するのに、造作も何もなかった。 彼はずっと真正面を向いたまま、すっと影の横を通り過ぎた。 影は反対に、彼の瞳を睨んだままであった。 「おい。」 彼ではなく、影の人物のほうが声をあげる。彼は立ち止まる。 静かな路に、雨の落ちる音だけが響く。 と、ガキンっという激しい音が雨を切り裂き、凶器と凶器が交わった。 彼の刀の鞘と影の持つ傘とが、ギギギ、と、鍔迫り合いの格好で押し合う。 両者は凶器越しに、笑顔を浮かべた。お互いに、酷く懐かしい顔だった。 「腕は落ちてねぇようだな、」 「お前もアル」 雨にぬれた髪が、顔に張り付く。しかし、互いに攻撃の手を弱めようとはしなかった。 「五年ぶりか?」 「六年ぶりヨ、もう忘れたアルか?」 「あいにくこちとら日々忙しいんでね、」 刀にかけた力を緩める。後ろにバッと飛び下がると、相手も数メートル後ろへ飛んだ。 「何年ぶりかなんて、数える暇もねえんだよ。」 久しく見ていなかった。笑顔がやけに眩しく写ったのは、お互い様だ。 「久しぶりに、手合わせと行こうじゃねえか。」 「望むところアル。」 一体いつから、こんな関係になってしまったのか。 半ば、確信犯である。共犯でもある。だが心地よい。それに、二人は気づいていない。 一刻が過ぎた。 「てめぇ、チャイナ、」 息も切れ切れになった沖田が、空に向かって声を発する。 「・・・・・また、腕、上げやがったな」 その隣で、同じように空を見上げて、神楽は声を発する。 「そっちこそ、なんか、鋭さが増してるアル。」 なんでぃ、その表現。 神楽が最後に耳にした時よりも、すこしだけ低くなったトーンで、沖田はぽつりと言った。 いい年にもなった男女が、橋の上で、大の字になって寝そべっている。無抵抗に、貪欲に、そして息を切らして、天から降り注ぐ雨を享受している。 全く、奇妙な光景だ。 しかし全く幸いな事に、激しくなった雨のおかげか、道行く人は一人もいない。 暗い灰色の空。 前より伸びて、肩よりもとうに長くなった神楽の髪が、白い頬に張り付いている。それを呆然と認識した沖田は、今始めて気づいたかのように、隣の少女の全てをまじまじと見つめた。 髪も背も、少し伸びたようだった。蒼いくりくりとした瞳は、しかし全く変わっていないように思う。いや、自分がそう思いたいだけだろうか。 「背、伸びたアルな。」 唐突に、蒼い二つの瞳がこちらを捉えた。その中には、不満と快感、しかしどこかに一抹の寂しさを称えた色があった。 「でも、目は変わってないアル。」 そして、ふふ、と笑った。 沖田は、何か言おうとして口を開いた。しかし何を言っていいのか、自分自身でわからなかった。逡巡していると、 「がっかりアル。」 そう言って、神楽はにやりと笑った。その顔を見て、沖田も「こっちもでぃ。」と、にやりとして言った。 「ちったあ胸がでかくなったかと思ったら、その程度かぃ」 「死ねぇ変態!」 「おい、勝負はもういいだろう」 「うるさいアル、お前は頭ん中を成長させろっ!」 「おい、ほんともう無理だから、マジで無理、」 「ならその場から一ミリたりとも動くんじゃねぇぞ、楽に逝かせてやるヨ!」 「いやまじだって本当に、ほんと今は無理だっつの」 自分に向けられた傘の先、それを沖田はおくびもせずに、ぐっと握った。 不意打ちのその動作に、神楽は少しだけひるむ。 そうして、握ったままで沖田は笑った。 「お帰りなせぇ。」 神楽も笑う。心地よい笑いだ。 確信犯であり、共犯である。それを二人は、まだ理解していない。 たったひとつの宇宙は |