しんと、暗闇が響き渡る夜長。虫が、かすかに鳴いている。 まっすぐだが緩やかな風が、男の鼻先から頬へと滑っていく。暗中に視線を落としているその男は、振り返らずに口を開いた。 「・・・・なんの用だ。」 背後から近づいた坂本は、お、と一瞬意外な表情をした後でくしゃりと表情をゆるめ、「おんし、気づいとったんか。」と、くつくつと笑った。 「さすが、晋助じゃ。」 「てめえの足音が、でかいだけだ。」 「ご挨拶じゃのう。これでも極力音を立てんようにしとったつもりやったき。」 「よく言うぜ。」 「おんしの頭の裏には目がついとるんかのー?」 「ぬかせ。」 一頻り笑った後、坂本はどかりと腰をおろした。その前方、片膝を立てている高杉は、相変わらず視線を闇の草むらへ投げている。 「今日は、弾いちょらんのか。」 突然坂本が尋ねた。高杉は「それがどうした。」と、気のない返事を返す。 「結構、楽しみにしとった。おんしの三味線。」 「今日は気分が乗らねえんだ。」 「おんしがそげな事を漏らすとは、珍しい事もあるもんじゃのう。何かあったんか?」 「何かあったのは、」 てめーのほうだろうが。高杉はゆっくり振り返り、坂本の目を捕らえた。 かすかに細められたその双眸からのぞく、刀のような鋭さが坂本を刺す。意識的ではない、人斬りの「勘」が坂本の全身の肌を粟立たせた直後、鈍い光りを発する何かが動いたかと思うと、空中で瞬時に弧を描いたそれが喉元に突きつけられた。何度も経験した、肌に食い込み、血とともに正気さえ抉り取るそれ。幾度となく体験し、しかし決して慣れることはない、慣れてはならないと必死に呼びかけてきたそれを思い描いた坂本は、無意識に顔を歪めていた。しかし歪めた途端に、いつまで経っても襲ってこない痛みに疑問を浮かべた。 が、違った。相手方は、刀で殺ぎ取ることを止めていた。そして止めているだけで、それを喉元から離そうとはしていない。相変わらず、ひんやりとした金属の冷たさが喉にある。 皮膚に切り目を入れる一歩手前、ぎりぎりで歯止めをかけている、いやかけることの出来る技量。高杉のそれに瞠目した坂本は、二、三秒経った後、かろうじで「・・・・気が狂ったんかの。」と、鋭い刃が突きつけられた喉元から搾り出した。搾り出す声がいつもと変わらず、ただし少しだけ上ずっていたなと思いつつ、坂本は高杉の二つの目を見た。そして、それまでとは異なる動揺を覚えた。 喉元に突きつけられたものと、数センチ前に迫った高杉の双眸。 どちらの光が本物の刀の放つ光であるのか、曖昧になっていく。 「いつからだ。」 おそらくそのためであろう。目の前にある高杉の口から、そう発せられた言葉を租借し理解するまでに、坂本は再び数秒を要した。 「何がじゃ。」 「俺が気づいてねぇとでも思ったか。」 そこでやっと高杉は体と刀を坂本から離した。同時に刺すような狂気も闇に溶けた。苦笑のような、呆れのような、どうともつかない声と表情で「なめやがって。」と吐き捨てた高杉は、再びもとの場所に腰を下ろした。 「晋助、おんし」 「辰馬ァ。」 先ほどと同じように眼前の草むらに視線を向けたままの高杉は、ふと指で前方の一点を指した。白い指が、暗闇にひとすじ、奇妙に浮かび上がる。 「あそこに何か、いるだろ。」 「・・・・おるのう。」 「何がいる。・・・・蛇か。それとも狸か。」 坂本は「何じゃいきなり、」と言ってしばらく笑った。 「何をするかと思えば、いきなり刀を突きつけてきて、その後はクイズ大会かの?おんしも、」 「いいから黙って答えろ。」 ぴしゃりと斬り捨てた高杉は、それだけ言って口を閉じた。こうなれば、意地でも口を開こうとしないのがこの男だ。坂本は居住まいを正すと、しぶしぶ高杉が指す方向に目を凝らした。 「ありゃ、たぶん狸じゃ。・・・何でおんしがそげな事を聞くのか、わしにはさっぱりわからんのー。」 「でたらめ言ってんじゃねぇよ。」 一瞬意外な顔をした坂本は、「はははは、そうかもしれんのー。お、良く見れば蛇のようじゃの。こんな夜じゃき、間違えたみたいじゃ。」と身を乗り出して、草むらを眺めた。 「だからでたらめ言うんじゃねぇよ。」 そんな坂本を、ふたたび高杉の双眸が捕らえた。 「何もいねえじゃねぇか。」 「は?」 「あそこには、元から何もいやしねえんだよ。」 一瞬置いて、坂本は再び笑った。笑った後に、少し寂しいような目つきで「はめられたのう。」と言った。言いつつ、今度は高杉の真横に腰を下ろした。そして口元には笑いを称えたまま、真剣な口ぶりで言った。 「近目。いつから気づいとったんじゃ?」 「忘れた。」 「ははは、忘れたとは酷いのう。」 「前から違和感があったんだよ。特に今日、てめえの反応が一段と遅かった。」 「だから、わざわざ刀を抜いて確かめたんかの?」 「俺ァ自分の目で見たもん以外は信じねぇたちだからな。・・・・昔から。」 「おんしらしいの。」 「ところで辰馬。」 先ほど垣間見えた狂気はどこへやら、高杉はやわらかい表情で懐から何かを取り出した。 「こいつを、見たことがあるか。」 坂本の目には、銀色、もとい鉛色といったほうが正しいであろう物体が映った。取っ手らしき部分は木製であり、そこだけ高杉の右手にすっぽりと収まっている。そして黒々しい穴が、鉛色の筒にも似たボディにぽかりと空いていた。 坂本は本能的に察した。これは、殺傷道具だ、と。 「その様子だと、始めてらしいな。」 対する高杉は、言いつつ面白そうに、手首を返しながら様々な角度からそれを見ていた。元々興味深い性格が、ここでも出ているようだ。 「天人の製品かの。」 「残念ながらそうじゃねぇ。欧人製と聞いたが・・・・同じようなもんだ。」 冗談ともつかない様子で答えた高杉は、その銃口を草むらに向けた。坂本は「鉄砲」というものを間近で見たことはなかった。しかしそれから発せられる死の気配は、坂本に魅惑にも似た感情を与えた。 ドォン、と腹に響く音が暗闇を貫く。キキキ、と鳥の鳴き声と飛び立つ音が響いて、虫の声が止んだ。ガサガサと走る何かがあって、再び先ほどの静寂は訪れた。 「こうやって天人を殺す。」 あえて天人に対象を集約したのは、無自覚ではなかろう。悲しいことに、この頃の高杉は対象をそれだけだと断定していた。 対して、坂本。高杉の右手に握られた物体から立ち上る硝煙を、彼はただ呆然と眺めていた。そして言った。 「・・・・おそろしいのう。」 思わず口を突いて出た、そんな表現がしっくりくる口ぶりと表情だった。 「こげんな小さい穴から飛び出てくるもんが、人を殺すんか。」 と言って、もう一度「おそろしいのう。」と言った。その言葉が高杉の中に沈んでいく。沈んだ言葉が底に届いたとき、高杉は口を開いた。「こいつをお前にやる。」と。 「近目なんだろ?遠くが見えねぇ目で刀使おうなんざ酷な話だ。まぁ、お前の目はさほど悪くなってねぇから今は必要ねぇかもしれねぇが。・・・・いよいよ近目が悪くなった時に使ってくれりゃいい。」 「おんしは?」 「俺ァもういい。十分に遊んだ。それに、」 そう言って、挑むように銃口を坂本の頭部に向けた。高杉の口腔がにたり笑みを浮かべると同時に、坂本の目が僅かにすっと細められる。 ドォン、と、再び銃声。 「この音が五月蝿くて仕方がねぇんだよ。」 「・・・・その割りに二度もぶっぱなすんじゃき、おんしも相当な馬鹿ぜよ。」 「そうかもしれねぇ。けどよ、」 二人は笑っていた。銃声と同時に、どす、と鈍い、何か重い物体がずり落ちる音が響いた。二、三秒経ったのち、むっとするような温かい臭いが流れた。 「呑気に俺達の前に姿を現す、コイツも相当な馬鹿じゃねぇのか。」 「そんとおりじゃ。」 自分の後ろで絶命している天人の頭部から立ち上る煙を、坂本はしゃがみ込んで、しげしげと眺めながら「相当の馬鹿じゃ。」と呟く。 「これで、」 言いつつ、高杉は、既に絶命している天人のわき腹あたりを足で二、三度押し、死体を仰向けにした。天人とはいえ、かくも無残に歪んだ死に顔を浮かべている。見下ろす高杉は、何の色も宿していない。 「こいつの使い方はわかっただろ?」 そう言って、手元の銃を差し出す高杉に、坂本は「おんしの教え方は少々手荒すぎる。」と苦笑しつつ受け取った。 「まぁいいじゃねえか。早速、これに慣れるいい機会に恵まれたんだ。」 「そうらしいの。」 ずん、と二人は背中合わせに陣を取った。 高杉はいつのまにか抜刀した刀を構え、対する坂本は銃を構え。 「ヅラや金時がキレそうじゃ。」 「それはそれで面白れぇ。」 いつの間に囲まれていた二人は、それでもそこで、笑っていた。 天人の一人が残光のような慟哭の声を叫び、高杉のほうへ跳躍する。坂本は、次の瞬間高杉が五人の天人を斬り捨てることを瞼の裏に幻視しつつ、手元の銃口を眼前へ向けた。 その時初めて、手元のものが自分の予想を超すような重みを伴っていることに、気づいた。 泣き叫べ引き裂かれよ [初出 2008.2.24] |