墓、というものに対峙するのは、いたく久方ぶりだった。

蒸し暑い風が吹く。
男の頭に無造作にかけられていただけの白い手拭いが、さらりと地面に落ちた。
それは、まるで愛撫のようだと。
強烈な日差しが墓石に当たり、跳ね返ってくるそれをまともに受けていた男は、落下した手拭いには目もくれず、ふとそう思った。
果たして、男の見解は間違ってはいなかったと言えよう。
風は男の頬をゆるりと撫で、名残惜しむかのように、男の手拭いを引いた。
その風は、まるで極上な遊女の愛撫。

墓場は一種の異空間であると詠ったのは、どこの酔狂者だったか。
確かに、と男は納得する。
近くで鳴いているはずの油蝉の声が、なぜかぼんやり遠くに聞こえ、青い葉の隙間から差し込む強烈なはずの日差しが、なぜか眩しいだけである。
熱いはずのこの季節、しかしなぜか自身の心は冷や水のごとく冷めている。
加えて目の前の墓、確かにこれには彼の人物が埋まっているはずなのに、見ている自身は、白昼夢を見ているかのごとし。

当の墓石に刻まれた文字を見て、男は呟いた。
その墓場には、男以外は誰もいない。
元から寂しい、墓場ではあったけれど。


「沖田、・・・・・それがお前の苗字だったのか」


後々になって知った。
真撰組の沖田。一番隊隊長。
彼女がその沖田の縁者だったのだと。
その事実を知ったとき、なんとも言えない嗤いが込み上げてきた。
彼女は真撰組を生かしたと言っても過言ではなく、しかし皮肉にも真撰組の手によって殺された。そして彼女の弟も、その片棒を担いでいようとは。
恩師の死を知った瞬間に浮かび上がり、なおも自身の内で生きているその、黒々とした感情が、とぐろを巻き、また疼きだす。
ああ、・・・・人間の人生というものは実に滑稽で、それでいて。



「実に皮肉で、いけねぇな」



そう呟いて、熱心に三味の手入れをしている同志に怪訝な顔をされたというのは、この男の、また別の話。

しかしこの時点で、真撰組の沖田と彼女が血縁関係にあったのだと、男が知っているはずもなく。

白昼夢のようなその空間に身を置いていた男は、わずかにその片目を細める。
夏の風が愛撫だとすれば、彼女の存在は、まるで白昼夢のようだった。
と、ふと思った。
まともに話したのは片方の指で足りてしまうほど少なく、それゆえ彼女の顔は、自身の中で既に曖昧になってしまっている。
曖昧で、おぼろげで、白い・・・そして目も眩む。
そのような、まるで白昼夢のような存在が、自分の中での彼女だとしたら。


さて、と男は踵を返す。
油蝉の声がいよいようっとおしく思われてきた頃合、男は墓前を離れた。

口をきいたのは数回、知っているのはその名と嗜好、加えて己と同じ病の名。
そして、――――彼女を生かし、殺した男の名。



「酔狂なのは、俺のほうだな」



自身の思想や過去、芯の部分を支えている破壊を、ひとまず横に置いて。
今夜は、彼女を知る一人間として。
会わねばならぬ男がいる。
相手方は腐っても幕府の犬と呼ばれている存在、よって倒幕の意志のある自身とは、真っ向からの敵である。自身にとって相手方は邪魔な存在でしかないことも、それは勝手に自身を最重要危険人物に定めた相手方にとっても同じであることも、また知っている。万が一無事に接触できたとして、話が終わった時点で隠れていた隊士どもに斬りかかられるのが関の山というもの。
しかし、それでも――――会わねばならないのであろう。

白い、照り返す日差しが。
男は落ちた手拭いを拾って一方の肩にはらりと掛け直す。
その動作が、男にしてはなんとも妖艶で、墓場の蝉も見とれて鳴きやんだとか、そうでないとか。

遠くで太鼓の音がした。
その男に似合う夏の祭りが、もうすぐ始まろうとしていた。






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