その女をはじめて見かけたのは、もうだいぶんと前になる。 江戸という都会と、関東の様々な田舎の村とを結ぶ中間に、大小の旅籠がひしめく宿場町がある。 その宿場町に、ひっそりと隠れるように佇んでいる武家屋敷。 そこにたった一人で住んでいる老婆がいる。 高杉は人目を忍んで通っていた。通っていたといっても、その頻度はまちまち。毎週訪れることもあれば、次は三ヶ月先、といった具合である。 目的は、一に情報収集。 この老婆は、表向きにはただの老婆であるが、裏では攘夷浪士を庇っていた。 間者のような真似事をしたこともある、立派な攘夷論者である。 その老婆から情報を得ることが、高杉にとっては指し当たっての重要事項であった。 二に、・・・・いや、本来はこちらが第一の目的であるのかもしれないが、患い、である。 その老婆は、昔は街医者の妻であった。少しは、医者の真似事ができた。 そして高杉は肺を患っていた。と言っても症状は今のところ激しく出てはいない上、普段の生活に支障をきたしていないため、高杉が肺労だと知っている者は、親しい部下の中でもたった一人、三味の音色を好む物好きなあの男だけである。 ともかく、その老婆の家である。そこで、その女を見かけたのだ。 老婆を待っている間、明かり障子の隙間から見た。客など滅多にいないはずの老婆と、親しげに何かを話している者がいた。高杉の存在には気づいていなかった。 当たり前であるが、高杉が気配を消していたためである。 老婆と話しているのは、・・・一人の女だった。 見た瞬間、高杉の中で何か、いたく懐かしい感情がわきあがってきたのだが、その行き先はついぞわからずに終わる。 ・・・・それから。 ああ、こいつはすこぶる美人の部類に入るのだろう、という事、そしてその女の齢が自分とほぼ同じ程である事を、やや遅れて思った。 思ったが、それだけだった。 次に会ったのも、似たような時分だった。 いつものように老婆を、指定席ともなった縁側にて待つ。 小さな、しかしなかなか風情のある庭の松をぼんやりと眺めていると、誰かが高杉の隣に腰掛けた。 高杉はその人物の顔を見なかった。 しかしそのふわりとした空気から、女だということは知れた。 高杉は何も言うつもりもなかったため、無言でいた。しばらくの沈黙の後、隣に座っていた女が、こちらを向いて微笑んだ。 その物腰がすごく柔らかで、それでいて見えない色香を放っていたのを、朧げながらも覚えている。 「・・・ここには、よく来られるのですか」 それを彼女が発したのだと気づくのに、数秒かかった。 ともかくも、それが二度目だった。 「ああ・・・おみっちゃんかい」 老婆に尋ねると、呆れたと言わんばかりの表情で返された。 「晋助、早速かい。手が早いとは、お前のこと以外の何者でも」 「違げぇよ。・・・・まぁ確かに、いい女だとは思うが」 一度くらいなら、抱いてもいいな。 高杉は煙管をコン、と叩き、灰を落としながら言った。笑いながらである。 この男にしかできない、にやりと嗤う様に若い女どもは惹かれるのだろうが、老婆にとってはこの若造の「にやり」は、憎らしい以外の何物でもなかったという。 老婆は小さくため息を吐きながら、答える。 「あの子は、死んだ知り合いの娘でね。ずっと武州から出てこなかった。遠慮なんて、しなくていいのに。・・・・しかし最近、肺の具合がちょいと悪くてね。もとから患ってはいたんだが・・・」 「肺、か」 「そうさ、お前とおんなじ、肺労さ」 肺労なんて、珍しいもんでもなんでもないじゃないか。なったら死ぬだけさ。 明るく、なんでもないように、老婆は言った。 「だが、あの子のほうが、あんたよりも何倍も具合が悪くてね。でも、気立てはいいし、歌も三味も花も出来る。話してみると、案外というか、やっぱりというか、かわいくてね」 「あんたとは大違いだな」 「大きなお世話だよ。さぁ、これで満足かい若造」 「帰る前に一つ。お上の情勢は?」 高杉がふいに言った瞬間、老婆の顔が曇った。 その様子を見た高杉は、わずかに目を細めた。 「・・・・悪いのか」 「天人の異国船優遇処置。とうとう決まっちまいそうだと」 高杉は、ゆっくりと煙を吐く。 近年急激に勃興し始めた、幕府による対天人貿易。 開国当時、対天人貿易に難色を示していた幕府は、しかしその収益に目をつけ、とうとう異国船優遇処置・・・つまるところの、対天人貿易保護策を政策として打ち出した。 では何故、難色を示していた幕府が一転、保護策を取るようになったのか。 理由はすこぶる簡単である。金だ。 「また、関税をあげる気か」 「それ以外、ないだろうね」 天人製の輸入品に、高い関税をかける。その利益を、幕府は私腹の肥やしとしている。 これでは天人の思うドツボに嵌ったも同然である。関税という、目先の利益にしか目の行かぬ幕府の官僚。彼らは江戸に、強いては日本に訪れる天人の数が年々莫大に増加しているという事実を、その意味を理解しているのだろうか。 ・ ・・・・しかし高杉にとって、そんなことはどうでもよかった。 彼にとっての破壊とは、理由云々の次元ではない。 おもむろに、腰を上げる。 「また、よろしく頼むぜ」 「冗談はきつい。もう来るな」 「おいおい・・・」 「お前が来るとなりゃぁ、ろくな事がない。この家に真撰組に土足で上がられる日も、遠くないわい」 「そんときゃ、俺が斬ってやるよ」 「ふん、簡単に言うんじゃないよ、さっさとけぇんな」 こんな具合である。 まだまだ祭りには遠い、ゆっくりとした江戸の春の事である。 |