気づいたら、「彼」が一人、三味線を弾いていたのだ。

知り合い、もとい医者の妻であった人の家に、度々訪れる「彼」である。
その彼が、一人で、ぽつりと縁側に座り、どこから持ち出したのであろうか、三味を弾いていた。
足を開けっ広げ、大層くつろいだ様子で、何の気も無しに、ただ弦を弾いているようだった。
彼に、そのような風流な趣味があったとは知らず、意外にも、という表現そのままに、しばし呆然と見入ってしまった。
覆われていない方の目だけが、こちらから伺うことが叶った。だが、やはりその表情は、どこか呆けたような、芯のないような、もっと言えば。
全てに絶望しているような目であった。


・・・・これと同じような瞳を、同じような眼差しを、私は、私はずっと。


ミツバは、思考を止める。
いや、止めなければ、自分はもうここには戻って来れない。
常にそう思うように心がけてきた故、今回も無事に抑えることが適おう。
悲しいか、辛いかなんて、当の昔に置き去りにしてきた。

ミツバは、遇に足を戻した。
音を立てぬよう振り返り、そっと畳の上を引き返す。

(そういえば、たしか・・・・)

おぼろげな記憶を辿る。
いつかの老婆と、己自身との会話を。
果たして、目的のものは己の記憶そのままのスペースにあった。それが収めてあるであろう箱をそっと取り出す。幸いにも、埃をかぶっていなかった。

(あった。)

背後にはくだんの人物の奏でる三味の音、その旋律を自身の頭で唱える。

(そう、それから・・・・うん。)

自分は、この曲を知っている。



面白半分である。
ダメで元々、失敗すれば笑ってごまかそう、そうしたらきっとこの人は無表情でいる。
そう思った。




老婆は驚いた。久しぶりにこういう風景を目にする。
ミツバと攘夷の若造が、二人あわせて曲を為していではないか。

ミツバの手には横笛、高杉の手には三味線。
どこかなつかしい、しかし曲調は激しい。
縁側近くから響くその澄んだ音。最初は三味の音のみが流れていたため、また攘夷の若造かの戯れかと思った。しかし、あるときを境に、横笛の音まで耳に飛び込んでくるようになった。
一人で笛と三味、双方の音を奏でるという曲芸は奴とて不可能、ではいったい誰がと思って来て見た次第である。

曲は全く乱れない。
三味と笛も、乱れない。
不思議に融合している。

しばし呆然としていた老婆は、ゆるりと三味と横笛、双方の奏者の表情を見た。
三味の主のほうは相も変わらず無表情、手だけが緻密な機械のように動いている。瞳も同じく、庭の松を睨んでいる。
横笛の主はというと、目は真剣そのものといわんばかり、しかしどこかで微笑んでいる様であった。
しかし一体どうしてこんな酔狂事を、何故お前達が。
ぽかりと浮かぶ疑問の後、みっちゃん、笛を吹くのをやめな。肺に悪いだろうがと告げる決意を固めた。
固めたところで、ミツバの瞳が老婆のそれと合う。


今度こそ本当に、ミツバは微笑んだ。


(・・・・あたしゃ知らないよ。)
心の中で悪態をついた老婆は、ふいと踵を返した。
ため息が一つ、三味線の音色に消えた。




高杉は、始め戯れで三味の弦を弾いていた。
どこで聞いたのか、当てもなくただ記憶のみを頼りに三味の音を奏でていた。
しかしあるとき、誰かが、すっ、と腰を下ろした。かと思うと、自分の隣から横笛の音色が流れ出した。
ミツバが、横笛を吹いていた。
しかも、自分の三味線の音色に合わせている。
たしかにこの調べ、三味だけで奏でるものではなかった。横笛と三味線。そして小太鼓。
その三者で構成するものであった。

撥を持っている手を止めることは、あえてしないでいた。
横笛の音色がなぜか懐かしくて、そして意外にも気に入ったので、そのままにしておいた。
すると、背後に気配がした。
婆さんだと判断する。
その気配はこちらへ足を向けたが、すぐに踵を返して消えた。
と、ものの数秒で再び現れる気配。曲はいよいよ大詰めと言ったところまで差し掛かる。

突然、いや至極自然に、その音は溶け込んだ。
小気味良く弾く撥、少し腹に響くその小太鼓の音色。
一定と見せかけて時に乱れる、もちろんその乱れは計算上であり、老婆の酔狂でもあった。

今や小さな武家屋敷から、三味と笛と太鼓の音色が通りまで流れ出ていた。
激しい、その音色はいたく激しい。
しかしそれは三味線の張り詰めた音によって切られ、柔らかな横笛の音によって夕凪の上をたゆたい、少し低い小太鼓の音によって、見事に仕切られていた。
奇妙な三人の、奇妙な戯れであった。

その見事な音色に自然、通りの人々は足を止めた。
人々はその三者の織り成す音の複合体に、夏の訪れをひしと感じた。


「・・・・土方さん、こりゃあなんですかい」


その中に、まだ若い少年もいた。
「・・・知るか」
「しかし、とんだ酔狂者、で片付けられる腕じゃねぇや。本気で上手いな」
少年はいたく、その音色を気に入っているようであった。
誰が弾いてんだろ。とも言った。
と、


「・・・・・・“彩雲”」


それまで黙っていた男が呟く。一拍置いて、少年はその男に問う。
「なんですかい、それ」
「この曲の名だ」
男は、ぽつりとそう言った後に踵を返した。
沖田の鼻孔を、苦い煙が掠める。

「帰る」
「・・・・・へいへい」

三者の戯れは、尚も続く。






「彩雲」・・・・吉田兄弟「フロンティア」より
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