「世界に自身の生きた証を知らしめたい、か。」 煙管から立ち上る白いけぶりを横目に、高杉は立ち上がった。 「どうした。何か、おかしなことでも言ったか。」 「いや。・・・・おかしくはねぇ。」 しかし、今夜は星がよく見える。屋形船から望む夜空を眺めつつ、高杉は深く煙を吸った。 「既に名が広まっている君には、到底理解できないかもしれないが。」 皮肉半分、そして自嘲半分といったところか。 手前にある酒を口に運びながら、薄く笑った伊東が言った。 「なぁ、伊東よ。」 振り返った高杉が言う。伊東は、その声に顔を向けない。 「お前と真逆のことを言ってのけた奴の話を、聞きたくないか。」 ほう、と感心したように小さなため息をついた伊東は、面白いものを見るような目で 「ぜひ、聞かせていただこう。」と言った。 高杉は、ゆっくりと吐き出す煙と共に言った。 「・・・・死んだ瞬間に、自分の存在が全ての人間の心から消えりゃいいのに。だとよ。」 「・・・・なぜだ。」 「人が悲しむからだとさ。」 悲しむ。 反復した伊東は、猪口の中の透明な液体を眺めたまま、黙った。 そして、しばらくして「幸せなやつだ。」と無表情で言った。 「幸せか。」 「ああ。そう言う本人も、その者にそう思わせる人間もだ。」 自分が忘れられない存在であるという自信。その上で忘れて欲しいという傲慢。 伊東には、そういった類の人間がひどく疎ましく思えた。 本人が望むと望まざるに関わらず、無条件で存在が認められる、容認される人間。 例えば、目の前のこの男はどうだ。 この男は決して、自身の存在を世界に刻み込むために生きているのではない。 破壊に生きるだけである。だが、世界はこの男の存在を無視して生き続けることはできない。それほどまでに、この男の存在は大きくなりすぎた。 例えば、近藤はどうか。 あの男も、決してそうではないだろう。自身の存在如何の前に、仲間の命を優先するような男だ。しかし、あの男の名を、真撰組局長の名を知らない人間はいない。街の子供でも知っている。 例えば、・・・・兄は、どうだったろうか。 兄は優しい人だった。決して、自身の名の存続を気にかけたことはないだろう。だが、これだけは言える。兄の存在は、僕や母や父の心から、未来永劫消え去ることはない。 これだけ名を知らしめたいと叫ぶ己を、まるであざ笑うかのように。 忘れてほしい、消えて欲しい。そう言う人間を、世界は忘れようとしない。 なぜもこれほど、世の中とは不条理でできているのか。 そこまで考えて、伊東はふと思った。 「・・・・・幸せ、ではないか。」 どう足掻いたところで、その願いが叶うことはないのだから。 「失礼しますっ、」 襖の向こうから叫ぶような声が聞こえたかと思うと、いきなり若い小柄な男が転がりこんできた。いきなりの動きにぎょっとした伊東は、しかし少しだけ目を細めただけだ。明らかに尋常でない様子で入ってきた男は、伊東のほうをちらりと盗み見た後、高杉の側によると小さな声で「松井屋が、やられました。」と息も切れ切れに言った。 対照的に高杉は、煙管を口からゆっくりと離した。 松井屋。江戸のはしくれで生きる薬問屋か。 もちろん高杉の息のかかった男である。その松井屋がやられたとなると。 結論を出すよりも早く、足が出ていた。 高杉は、伊東の横を過ぎた辺りで「少し空ける。」と言うと、足を止めずに着物を翻した。 伊東は顔に少しの笑いを称えただけで、何も言わなかった。 伊東を警戒していたのだろう、先ほど部屋に入ってきた部下は部屋を出るなり「それが、決して動くなとの言伝が、宿場町のばあさんから。」 「あのババアか。」 「ええ。それから、そのばあさんの家が、真撰組に踏み込まれたという報告も。」 「・・・・・・。」 チッと心の中で舌打ちをした高杉は、真撰組の仕事の速さに内心舌を巻いた。 「いつだ。」 「え?」 「いつ入られた、松井屋は。」 廊下を止まらずに問うた。 「今日の朝です。」 「ババアのほうは。」 「先刻。」 やはり早い。薬問屋である松井屋に踏み込んだあと数時間に、松井屋との繋がりがあった医者の妻、つまりババアの存在に気づき、踏み込んだと考えるのが妥当。いや、ババアの存在から松井屋を引き当てたか。どちらにせよ、その行動の早さと敵を割り出す嗅覚の鋭さは、お上直属の警察機関の中でも群を抜いていると言っていい。見廻り組には、ここまで短時間で割り出すことは不可能だ。 「邪魔だな。」 敵に自身と同じ何かを感じ取った高杉は、そこで初めて立ち止まった。笑って言った。 「やはり、潰すしかねぇようだなァ。万斎よ。」 「・・・・そのようでござるな。」 いつしか小柄な部下は姿を消し、代わりに廊下の向こう側から現れた男がいた。男は言いながら、高杉と反対方向へ足を進めた。 「伊東殿のところに、行ってくるでござる。」 「ああ・・・頼んだ。」 「具体的な段取りを、決める必要がありそうでござるな。」 |