その日は、何かがおかしかった。夕凪の匂い、色めき立つ人の吐息、透き通る夜空。
そう言った、些細な何かがおかしかったのだ。
匂いだ、と思う。血の匂い。そして、初秋の匂い。夏の終わりの、あの眩しい匂い。

そういった些細な何かに唆されたのかもしれない。
その日の夜、たまたま煙草が底を突いた。箱の中には残り二本。そのうちの一本をくわえ縁側で一人立っていると、ふと夜風に当たりたくなった、ちょうどいいと。
そう思って夜道に出たのが間違いだった。
目の前には、男が一人。明らかに殺気立っており、抜いてある刀を構え、こちらに血走った目を投げかけている。これらが示すものは、すなわち。

「幕府の犬め!天誅!」




一分後。
勘弁してくれ。
ぼやきつつ、土方は右足で、うつぶせになって倒れている男のわき腹を乱暴に蹴った。ぐらり、と動いて事切れた男の双眸が現れる。
顔に覚えはなかった。だが、ともかく明日の有給休暇は「これにてドロン」である。

「てめぇが勝手に斬りかかって来たせいでな、俺の貴重な休暇がパアだ。」

言いつつ、土方はしゃがみこんで死体の顔を見た。敵であれ味方であれ、重要人物はある程度頭に叩き込んである。そのリストに引っかからないということは、さほど重要な男ではないのだろう。
その、さほど重要でない男のために潰される運命となった三ヶ月ぶりの有給休暇。事後処理、別名「書類との睨み合い」という明日のスケジュールを明確にたたき出した土方は、もう一度、今度はありったけの嫌味を込めて、自身が叩き斬った男の頭を、鞘に収めた刀の先で二、三度小突く。

「責任取れ責任。それにな、ちったぁ頭を使え。俺を斬って世の中が変わりゃあ世話無えだろうが。」

言いつつ男の顔を睨んでいると、ふと土方の目に留まるものがあった。
男の着流しの隙間。弱冠血で染まっているとは言え、白い紙切れのように見える、それ。

「・・・・んだ、これ。」

土方はそれを、人差し指と親指で慎重に摘み上げた。その紙切れが蛇腹のように折ってある。手紙か?しかし裏返しても、宛名らしき文字はない。
土方は顔を顰める。そして奇妙な不吉さを感じさせる紙きれを、ゆっくりと開く。

《うつけの寝言だと思って、あと一つ。お前、覚えているかい?いつかお前とあたしとあの子で、三味線と笛と太鼓を奏でたことがあったね。そうそう、あの子だよ。》

墨で流れるように書かれた文面からして、やはり手紙か。
「あたし」に当たる人物から「お前」と呼ばれる人物に宛てられたものであり、不自然な書き出し、そして「あたし」「お前」、加えて「あの子」という不特定な単語の羅列から推測すると、これが手紙の二枚目以降になる。ともかくも一枚目を読まないことには内容を理解できないだろうと思い男の着流しを探すが、反して何も出てこないときた。

「なんだってんだ。」

仕方無しに、口に咥えていた煙草を手に持ち替えて文面の続きを追った。一枚目が無い以上、ともかくもこちらに目を通すことが先決だろう。

《あの子、あの後何度かうちに足を運んだんだけどね、お前に会いたがってたみたいだよ。あんたが元気にしてるか、と来るたびに聞いてきたよ。あの子は、言い忘れてたが、数週間前に死んだらしい。確かに、あの子の肺は悪くなりすぎてた。あんたに会ったころのあの子の体は、もうあたしの手には負えない程ぼろぼろだったんだよ。で、何であの子の話をここで出すかというとね・・・・あの子はどうやら、あんたの敵さんと繋がりがあったみたいなんだよ。何かの話でそれとなく敵さんの話を出したら途端にね、あの子ははっとして目を見開いて、しばらくあたしの顔を見ていたよ。結局、何も言いはしなかったけどね・・・・・ただ微笑んだだけで。そう、あの消えそうな笑顔で。ゆっくりとね。そこであたしは初めて気づいた。あの子がそうやって微笑むときは、答えをはぐらかすときなんじゃないか、と。》

突如、後方に鋭い匂いが走った。


「おいおい。背後、がら空きだぜ。」


それは物質的に感じる匂いではなかった。空気を伝わり、他者をも飲み込む凶器の匂い。死の匂い。目の前に倒れている死体よりも、それは強い死の匂いを伴って走る。
同時に、土方は自分の背後に突きつけられているであろう刀の存在にも気づいた。

「しかも人の文を盗み見るたァ・・・真撰組の副長殿は、大層な趣味をお持ちでいらっしゃる。さすが幕臣、といったところか。」

後方から聞こえる、だれるような、死を呼ぶような声。
声の主に刀を突きつけられたまま、しかし土方は冷静に、ハッと鼻で笑った。

「人が読んでる姿をじろじろ見てる、てめぇのほうがよっぽど趣味が悪りぃんじゃねぇのか。」

声と気配から判断して、男との距離は刀一本分。下手に動くとズブリだな。
そう思った瞬間、恐怖というより、むしろ狂喜といったほうが近い感情が脳天を支配した土方は、無意識に刀の柄をぐっと握り締めていた。走る感覚。鋭い狂喜と死の匂い。

「そういうてめぇは誰だ。こいつの仲間か?」

目の前の死体を顎で指す。
言いながら、斬った男の瞳孔を凝視し、同時に背後に全神経を集中させる。
瞳孔に映る背後の男が一瞬、ほんの一瞬揺れた。・・・・いけるか。


「そうだな。あえて言うなら、酔狂者、とでも名乗ろうか。」


「酔狂者?」
「ああ・・・死者の伝言を伝えに来た、とんだ酔狂者さ。」
「てめぇで言って、てめぇでわかってんなら世話ねえな。」
「違いねえ。だが、風流とも言って欲しいもんだ。あえて今日っつぅ日を選んだんだ。」


盆。盂蘭盆会。
今日はそうだった。夏の祭りは死者を呼ぶ祭り。唱える男と呼ぶ女。
人々の吐息の集合体。その中に死者が混じっていないと、誰が言える?


「御託はいい。さっさと名乗れ。」
「名前なんて意味のないもんに振り回されるんだなぁ、てめぇは。」

ゆっくりとだれる声。だが、死を呼ぶ匂いを伴う声。
どうもおかしい、今日は感覚がおかしくなっているようだ。・・・・いや違う。
匂い。夏の終わりの匂い。祭りの匂い。死者の匂い。
それらが伴って自身に吠え掛かってくる匂い。背後で刀を構える男のそれが、土方の脳を麻痺させる。


「じゃあ、そんな副長殿に教えてやる。あの女が死ぬ前に俺に話した、最期の伝言だ。」







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