そうだとしたら、とても残酷な事だと思った。



一時前と、相も変わらない。
音も立てずしんしんと降り注ぐ時雨は、止みそうにない。
ただこの、疼くような懐かしさはどこからくるのだろうか。
高杉は「死ぬことは、怖くないの。だけど、心残りなことは、あるの。」と言い出したミツバの声を噛み締めるように聞いた。
まるで、その懐かしさのゆくえを探りあてるように。

「私が死ぬことで、きっと誰かを悲しませる。それは、私の縁者であったり、奥で話しているおばあさんであったりすると思うのだけれど。」

ゆっくりとした動作で後ろを振り向いたミツバは、そこで一旦口をつぐんだ。
どこか、憂いを含んでいるように見えるのは薄暗い雨雲のせいか。
高杉は、その顔に少しの反発心を覚えた。

「悲しんだって一時さ。すぐにてめぇの事なんて忘れるんじゃねぇのか。・・・・・そういうのが人間っつうもんだろう。」
「そんなこと、わかっています。」

ミツバは、憂う顔から一転、曇りも何も無い透明な顔でそう言った。

「きっと、私のことなんて忘れてくれる。そうでなくても、いつかは忘れる。そう、それはわかっているの。」

まるで言い聞かせるような言葉だった。顔を伏せ、少しだけ笑って言った。

「だけど、私が死ぬことで涙を流す人が一人でもいること。その涙を拭えないこと。 ・・・・・・それが私の、唯一の心残り。」

たったそれだけか。
真っ先に高杉の心に浮かんだ言葉が、それだった。
死ぬことは怖くないという。それはつまり、伴う痛みも、必然の別れすら怖くないということだ。自分自身など、傍から考慮のうちに入っていないということだ。それは愚直なまでに自分以外の人間を想い、先行きを憂い、ただそれでも信じているということ。
愚直だ。あまりにも、愚直で悲しい。悲しすぎる。

「いっそ、私が死んだ瞬間に、全ての人の心から、」



だけど自分は、そんな人間を知っていたから。



――――私の存在が消えてくれたらいいのにね。」


例えばそれが、そんな人間全ての本心だとしたら。
心の底からの唯一の願いであり、この世に残す唯一の後悔だとしたら、それは残された者にとってあまりに残酷だと思った。

消えることなどありはしない。ありはしないのだ、心の中で息を潜め、だが確実に息づいている。ふとした瞬間にどうしようもなく溢れ出したり、憎んだり焦れたりしながら。

だのに、・・・・・忘れてほしいだなんて。

そんな、バカで救いが無いほどに真っ直ぐであってたまるか。
勝手に与えておいて、自分だけ消えたいだなんて。
そしてそれを願っていただなんて、それが唯一の願いだったなんて、
あまりに、酷すぎる。



――――そう思いませんか、先生。





「・・・・ごめんなさい。」


ぽつりと、それは紡がれた。ミツバは明らかに狼狽した顔で、すみません、何言ってるのかしらと、意味を成さない言葉を言った。居心地の悪い気分を味わい、とにかく立ち去ろうとして腰を上げたとき、その言葉に引きとめられた。

「それがお前の伝言か。」

中腰のまま、「伝言。」と、意を解せないミツバが反復して言うと、「この世に残して行くやつに伝えたいことは、それだけか。」と高杉が答える。そうしてミツバのほうに向き直った。

「俺が、そいつに伝えてやる。お前のその言葉、一言も漏らさずに。」

そこまで言ってはじめて、ミツバは高杉の意を理解したようだ。 返すように悲しく微笑んで「もう、何を言い出すかと思えば。」と言う。

「そんなこと、できるわけ」
「ない、とも言い切れねぇだろう?存外、俺の知っているやつかも知れねぇ。」
「だとしても、」とミツバ。
「言うつもりはありませんし、第一私は、その人の名前を教えませんよ。それに、一人じゃないかもしれません。」
謎解きを挑む無邪気な子どものように、だが少しの悲しさを伴って笑って言う。対する高杉は、「じゃあ、」と無機質な声で言った。
「てめぇの唯一の心残り、あれはでっち上げか?」
「そんなことは、」
「ねぇんだろ。」

煙管を煙草盆に、こん、と打ち付けた。
そうしてゆっくりと口元に運ぶ。瞬間その顔と、懐かしい横顔がぶれた。


(・・・・・そういえば、あの人も煙草を吸っていると、そーちゃんが手紙で、)


そこまで無意識に巡った意識に驚愕した。

「ありません。嘘なんかじゃありません。」

・・・・この人は、いけない。
この人は、あの人を喚起させる何かを持っている。

「私のことなんて忘れてほしいの。しっかり、前を向いて生きてほしいの。私のことを振り返る暇さえ無くなるくらい、まっすぐに生きて。そういうあの人たちを、あの人を、私は。」

そこまで言って、ふと痛々しささえ含んでいた表情を、ゆるゆると緩めた。
雪解けの笑顔。のちに宿場町の婆さんが、「答えをはぐらかすときだ」と高杉に宛てた手紙にて称することになる、その笑顔。高杉はそこに、懐かしさの面影を見た。

「それに。どうせなら言伝よりも、・・・・一味を。」

そのままの流れで、ああ、と頷きかけた高杉は「・・・はぁ?」と、突拍子も無い声をあげていた。

「私が死んだら。私の墓前に、一味をお願いしますね。」

添えられる笑顔も、言葉の意味も全く以って理解不能である。
高杉は不信そうな顔で、「一味って、」と返すしかない。

「あの、うどんとか蕎麦とかにかける、あれか?」
「ええ。一味、美味しいですよね。」
「いやうまいけど。つうか、それがてめぇの好物か?」
「ええ。大好き。」

数少ない今までの会話のうちにわかったことがある。
この女は突拍子もないことをいきなり言い出す。おそらく残して行くやつの前でも、瞬間に意味が解せないが小気味よいテンポで繋がる会話を楽しんでいたのだろう。きっと、ころころと笑うその笑顔と共に。
これこそがこの女の最大の魅力であり、同時にそれは全てを忘れさせることのできる麻薬のようなものでもある。・・・・それすら、あと少しで過去になろうとしている。肺労という一般に酷く普及しすぎた病に飲み込まれてしまう。

てめぇがこの女に会ったらどんなツラするんだろうなぁ、銀時。

高杉はふと、考えた。

愚直でやわらかい陽だまりのような、だけど悲しくてどこか懐かしい白昼夢のような・・・・この女に、この世に残していく唯一の後悔を聞かされたとき、てめぇはどんなツラをする?
面影を見て引きずられるのか、あるいは。
案外、死ぬ原因が病だって知って安堵するんじゃねぇか?
病で死ぬ分、マシだったと。


高杉は立ち上がりながら、ぶっきらぼうに言った。

「気が向いたら、持って行ってやるさ。」

低い天井の木製の鴨居に右手をかけ、下から覗き込むようにして空を見上げた。
眩しそうに、目を細める。


「存外てめぇも、酷い女だな。」


ミツバがぽかんとした。何か言おうと口を開きかけたとき、高杉は踵を返した。


「だが・・・・嫌いじゃなかったよ。」


そう言い残して、振り返らずに去っていった。
一時置いて、はっとしたミツバが慌てて空を見上げる。
そこには雨上がりの太陽が、いや夕日が、金色の雲間に顔をゆっくりと出していた。






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